地域共育に関わる多様な取り組みを
インタビュー形式で紹介します。
ビジョンを掲げ自我を消す?地域共育コーディネーターの存在意義とは
学校を取り巻く環境は、目まぐるしく変化してきました。通学がむずかしく他の地域へ引っ越さなければならない子どもたちや、異なる環境を求めて親元を離れ下宿する子どもたちも珍しくありません。多様な進路選択や仕事の種類を考慮し、学校を卒業後も、故郷へ帰らないケースもよくあります。

しかし、北海道浦幌町は違います。平成21年度、町内唯一の高校が閉校したことをきっかけに、地元の子どもたちが浦幌町を誇りに思い、帰ってきたくなるような地域をつくるべく「うらほろスタイル」プロジェクトが始動。一般社団法人十勝うらほろ樂舎が小中一貫で子どもたちと関わり、地域の子どもと大人たちが、さまざまな経験を共有しています。
地元への愛着は、自然に生まれることもありますが、誰かとの関わり合いの中で育つもの。「うらほろスタイル」は、故郷への愛着の土台を、10年以上かけてじっくり築き上げてきました。結果、浦幌出身の子どもたちが成長し、学校を卒業したり転職したりするタイミングで浦幌へ戻り、新しい仕事や暮らしをつくる循環が生まれています。


下川町には、小中高と一校ずつありますが、進学を機に下川を離れる子どもたちも少なくありません。彼らが前向きに「下川に帰りたい」と感じるようになるための土台は、これからどうやって耕していくべきなのか。
下川町の地域学校協働コーディネーターの本間莉恵が、「うらほろスタイル」の素地を作った近江正隆さんと、「十勝うらほろ樂舎」に所属しコーディネーターとして働く本間悠資さんに、お話を伺います。
登場する人

- 十勝うらほろ樂舎 スタッフ
- 本間 悠資 札幌市生まれ。自身の生い立ちから、へき地教員を志し、北海道教育大学釧路校へ進学。卒業後は、地元札幌で児童福祉(児童会館職員)に従事し平成29年に浦幌町に移住。平成30年よりうらほろスタイルのコーディネーターを務める。
- 下川町 地域学校協働コーディネーター
- 本間莉恵 2019年8月に下川町の地域おこし協力隊に着任。2021年1月より教育委員会で地域学校協働コーディネーターを務める。
- 十勝うらほろ樂舎 前代表理事
- 近江 正隆 19歳で浦幌に移住し30年。漁業を中心に農業や林業などの一次産業に携わった後「十勝うらほろ樂舎」や「十勝うらほろ創生キャンプ」がスタートする一つのきっかけとなった「うらほろスタイル」の基盤を築く。
「できることをやる」ではうまくいかない

── 下川町のこれからの地域共育のお手本にしたくて、今日はお時間を作っていただきました。よろしくお願いいたします。実は一度、下川の学校運営協議会のメンバーも、浦幌に視察に行かせていただいたことがありますが、その時の印象、何か覚えていらっしゃいますか?
本間(悠): 熱量ですね。数時間しか滞在できないのに、わざわざ数時間かけて運転して来てくださった町の職員さんがいたり、一つひとつの取り組みの説明に対してたくさん質問をしてくださったり。何かひとつでも、下川に持って帰ろう、地域の子どもたちのために吸収しようという姿勢を感じました。
本間(悠): 「十勝うらほろ樂舎」のスタッフが下川に視察に行かせていただいた時もありますが、その時に教えていただいた「スキ活」というプロジェクトは、真似させてもらいました。少し毛色を変えて「推し活」プロジェクトとして、浦幌の子どもたちの「推し」を集めて、公民館祭りで展示しています。
うらほろスタイルは、どんな事業を手掛けるにしろ「地域が良くなるために、どんなことをするか」という視点が軸です。でも「スキ活」は地域への思いは一旦横に置いて、一人ひとりの個人の好きなものや好きなことに焦点を当てている。自分の’好き’を表現できる場をつくるという発想は、浦幌ではなったなと気付かされました。
近江: 下川町には主体性のある行政の職員さんがしっかりいるんだなという印象を受けました。ただ自分自身の浦幌での経験を通じて、どこかの立場が強すぎたり、しっかりしすぎたりするのは、他の人たちの関わり方にも影響するなと感じます。
近江: 今の学びは、誰も何か正しいのか分からない中で進めていかなければなりません。そのため、誰か一人──例えば行政の力が強かったり、保護者の声が大きすぎたり、先生だけに熱意があったり、どこか一ヶ所に熱量やパワーが集中すると、危ういのではないかと思います。他の立場の人たちが入る隙がなくなってしまうから。それに、誰かがあれもこれもできるとなると、他の人は「やらなくていいか」「自分には関係ない」と感じるようになる。
でも、取り組みを進める中で、組織の種類によって向き不向きがあると思うんですよね。民間だからやれることがあるし、逆に行政だからこそ持っている強みもある。
── 地域共育は誰にでも関係がある領域なので、職種や世代を横断して対話する場面は必須ですよね。
近江: そうですね、連携していくべきだと僕も思います。ただ、できることをやるというスタンスだと、なんとなく、うまくいかないことが多いと思います。微妙な言い方なんだけど。
── できることをそれぞれがやると、うまくいかないんですか……?
近江: 自分ができることを持ち寄るというより、できないことを認め合って相互に支え合うという流れの方が、共同作業はうまく進むんじゃないかな。
できることを主張するより、まず自分には何が足りないのか、できないことは何か認めて周りに示す。そうすると、上から目線にならず、できる人に対する敬意が強まると思います。結果的に自分ができることをやるんですが、コミュニケーションの仕方が変わると思うんですよね。
’コーディネートする’とは?
── 学校と地域を繋ぐコーディネーターの存在は、どのような価値があると思いますか?
本間(悠): 自分が育った宮城県の小学校は、一学年6人くらいの小さな学校でした。校舎の裏には田んぼがあって、毎年水入れから、代掻き、田植え、稲刈り、干して、脱穀、精米まで地域の人と僕らが一緒にやっていたんです。秋には餅つき大会があって、周辺から100人以上の人が集まりました。
本間(悠): いま思えば、あの田んぼは地域のどなたかの敷地だったんだろうと思います。代掻きをするときも、どこからともなくトラクターが来てくれたり、僕らが作業するときには事前に道具が準備されていたり、田んぼの周りで、知らないおばあちゃんたちが来ておしゃべりしたり。農作業を教えてくれるのも、地域の大人たちでした。ただ、僕が通っていた当時、その小学校にはコーディネーターという肩書きの人は確実に配置されていなかったんです。たぶん、いま僕たちがコーディネーターと呼んでいる役割を、地域のいろんな人たちが自然に、ちょっとずつ分担していたのだろうなと。
おそらく学校側で窓口になる先生が、町のキーマンにあたる方と話をして、周りに声をかけると自然に地域の人が集まって来ていたのかなと思うんです。先生たちは大変だったかもしれませんが、少なくとも子どもの僕たちはとても楽しかった記憶があります。
本間(悠): ここ数年で学校現場も地域の状況も大きく変わりました。先生の仕事が学校内のことに集中したり、高齢になっても働いて地域活動に参加する時間が取れない人が増えたり。みんな自分の生活や役割に費やさなければならない時間が増えて余裕がなくなり、以前は阿吽の呼吸でできていた部分に、少しずつ隙間が広がっていったのだと思います。しかも、その隙間は生活にすぐ打撃を与えるわけではないので、注目されないままなんとなく放置されて、結果的に地域での活動や人のつながりがなくなっていく。ですから、コーディネーターという役職が大事というよりは、人のつながりがあるほうが良さそうだという場面で、コーディネーター的な動きが必要とされるのだと思います。
近江: コーディネーターと言っても、場面によって役割は変わりますよね。個人プレーヤーが別々に活動してうまくいくこともありますが、先ほど話した、できないことを補い合う関係性でできることも、たくさんあると思うんです。
そういう意味では、ある意味つながないという行為も、時には必要かもしれません。
── あえて人をつながない、ということですか?
近江: 関わる人たちの主体性を無視したところで、人とのつながりは形骸化してしまいます。人の本質的なつながりには、一人ひとりが「自分だけではできない」と気づくところから始まると思うんです。だからコーディネーターとしてできることは、いかに「つながりたいな」と思える環境を作るかではないでしょうか。
どんなに理解されなくても
── 私も、誰が何を感じてるか観察し、自然なつながりが生まれそうな場を設定できるようアンテナを張っていますが、その勘所はなかなか言葉に表せない力のような気がして。コーディネーターには、どんな資質が必要だと思いますか?
本間(悠): コーディネーターが取り組むことは、すべて相手ありきです。自分が「こうしたい」と思っても成果が簡単に出るものでもない。だから子どもたちのために長い目で活動できるかどうかが、まず重要だと思います。
本間(悠): あとは、ちょっとネガティブな言い方かもしれませんが、やりたいことのためにやりたくないこともできるかどうか。例えばアスリートは、良いタイムや結果を出すという目的のために、誰にも言われなくてもウェイトトレーニングや走り込みに取り組みます。それと似たイメージで、理想のために、自分の苦手なことややったことのないことにも積極的に意味を見出してできる人は、コーディネーターがどんなに理解されづらい仕事でも、自分の中でバランスを取れるのかなと思います。
近江: 周りの主体性を引き出すための仕掛けをするコーディネーターこそ、ある意味リーダー的な資質や、明確なビジョンが必要かもしれませんね。
だから「私はこれがやりたい」と強い意志を持ってる人たちにこそ、一度はコーディネーターを体験してほしい。どんな仕事でも、必ず誰かと対話したり解決したりしなければならない場面にぶつかります。コーディネーターとして、どんなにやりたいことがあっても、自分のやりたいこと持ち込まず相手に合わせてチャレンジする経験は、その後のどんなキャリアにも役立つと思います。
── 確かに、かなり鍛えられますね。
本間(悠): 僕もコーディネーターになってすぐ、近江さんから「自分の主体性よりも相手にうまく巻き込んでもらえるように動きなさい」と教えてもらいました。4年目ぐらいから「次は自分のビジョンを持つタイミングだ」と言ってもらった記憶があります。就任して最初の3年間は、自分の意思はあんまりなかったような気がしますね。先生や地域の人たちの意見や要望を聞いて、ひたすらそれに応えられるように動いていました。
── その期間は、しんどくなかったのでしょうか?
本間(悠): ありがたいことに、僕の思いや動きの意図を理解してくれて、褒めてくれる方もいたんですよね。「誰にも褒められないのに偉いね」って(笑)。コーディネーターの仕事の全体像は理解されづらくても、例えば電話やメールで済ますのではなく、紙1枚だけでも玄関先まで持って説明に行くとか、そういう細かいことを見ていてくれる人はいるんだなって。いま思えば、僕の意志やメンタルが強かったというより、つぶれないように周りが気をつかってくれていたんだと思います。
近江: コーディネーターが手がけたのかどうか分からないコーディネートが、本当はいいんでしょうけど、そんな魔法みたいなことは、なかなか起きません。その上、コーディネーターが何をしたのか明確でないと、コーディネーターという存在の価値が伝わらない。そうすると、地域で孤立していってしまう。でも逆に言えば、コーディネーターの存在をちゃんと応援できる地域が、生き残っていくと思います。
そういう意味で、下川町には本間さんがいるから、めちゃくちゃラッキーなんですよ!
── 現時点で、下川町のコーディネーターは私しかいません。「十勝うらほろ樂舎」さんが本間さんをはじめ複数のコーディネーターさんで活動されているように、下川町にも新しいコーディネーターさんにはどんどん入ってきて欲しいですね。ビジョンの実現へ、より近づくためにも。